

| 所在地 | 鹿児島県鹿児島市城山町7番2![]() |
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| 築城年 | 1602(慶長7) | |||
| 創築者 | 島津家久 | |||
| 遺構 | 石垣、堀 | |||
| 別称 | 鶴丸城 | |||
| 歴代城主 | 初代 | 島津家久(いえひさ) | 1576〜1638 | 島津家十八代当主。義弘の三男。幼名:忠恒。 |
| 2代 | 島津光久(みつひさ) | 1616〜1694 | ||
| 3代 | 島津綱貴(つなたか) | 1650〜1704 | ||
| 4代 | 島津吉貴(よしたか) | 1675〜1747 | ||
| 5代 | 島津継豊(つぐとよ) | 1701〜1760 | ||
| 6代 | 島津宗信(むねのぶ) | 1728〜1749 | ||
| 7代 | 島津重年(しげとし) | 1729〜1755 | ||
| 8代 | 島津重豪(しげひで) | 1745〜1833 | ||
| 9代 | 島津斉宣(なりのぶ) | 1773〜1841 | ||
| 10代 | 島津斉興(なりおき) | 1789〜1859 | ||
| 11代 | 島津斉彬(なりあきら) | 1809〜1858 | ||
| 12代 | 島津忠義(ただよし) | 1840〜1897 | ||
| その他 | 島津家初代忠久(ただひさ)は、建久8年(1197)に源頼朝から、薩摩・大隈・日向三国の守護職に任じられた。以後、南九州に一大勢力を築き上げてきた。 戦国時代、十六代当主義久は豊後・大友氏、肥前・竜造寺氏攻め、北九州まで勢力を伸ばし九州一帯を治める直前までいったが、天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐によって降伏し、旧領を安堵される。 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では、島津義久と義弘(義久の弟)は西軍に属したが、合戦では直接戦闘には参加せず、西軍の敗北が決定的となったとき、関ヶ原から家康軍の目の前を突破して本国へと引き揚げた。 そして、関ヶ原の合戦後、西軍に属した大名としては、異例だが、77万石の所領を削られることもなかった。これには諸説あるが、島津家の外交手腕によるものだとされることは想像に難くない。その後、江戸時代を通して薩摩藩として明治維新を迎え、多くの人材を輩出したことは人々に知られている。 現在は、本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館(昭和58年開館)が建てられ、鹿児島の歴史、民俗、美術、工芸等を紹介している。 また、鶴丸城は標高110mの城山の南麓に築かれており、天守や重層櫓などは築かれず、本丸御殿を築いただけの城というよりは、まさに島津家の御館というものだった。これは、徳川幕府に対する恭順の意を表す為だったとされる。 (黎明館に鶴丸城復元模型有り) また城山は、西南戦争の最後の激戦地として有名で、西郷隆盛が立て篭もった西郷洞窟等の遺跡もあり、城山展望台もあり、展望台からは桜島や鹿児島市内が眺望できる。 鶴丸城から北へ国道10号を上ると、島津光久が万治元年(1658)に建造した、島津家別邸の仙巌園(せんがんえん)があり、桜島を借景に素晴らしい庭園があり、明治時代にはいってからは島津家の本邸として利用された御殿も残っており、御殿に入ることも出来(有料)、しばし、時の流れるのも忘れてしまう。 仙巌園は通称・磯庭園とも呼ばれており、そこに隣接されて、尚古集成館がある。尚古集成館は、大正12年(1923)に開館された博物館で、本館は慶応元年(1865)に造られた機械工場を利用しており、重要文化財に指定されている。この地は斉彬が造った工場群のあった場所で、反射炉・溶鉱炉など軍需関係のほかに、ガラス工場、鍛冶屋、鋳物細工所なども建ち並んでいた。反射炉などの跡が一部残っており、見ることができる。 |
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| 感想 | 城と言えば、天守閣。・・・・と言う人には、当然、天守閣はもちろん天守台跡もないので、ちょっと、物足りないかもしれない。 しかし、城山展望台からの鹿児島市、桜島の眺めは絶景! そして、磯庭園からの桜島を借景とした眺めも最高。金沢の兼六園よりも、私はこちらの磯庭園の方が一度で好きになってしまった。 |
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